『東南院とは』
東大寺の一院で、現在の東大寺本坊。貞観十七年(八七五)聖宝が建立した薬師堂に端を発し、延喜四年(九〇四)に時の東大寺別当道義は官許を得て、大安寺の東北にあった佐伯氏の氏寺である佐伯院(香積寺)を、同年七月二日夜に工夫三百余人を遣わして、東大寺南大門の東方、薬師堂のあたりに移建した。佐伯院は、造東大寺司次官・長官となった佐伯今毛人が兄の真守とともに、大安寺地を購入して宝亀七年(七七六)に建立した氏寺で、衰微していたとはいえ、この暴挙に対して一族より非難されたが、聖宝と弟子の観賢に付属することで事件は一応落着した。大仏殿・真言院の東南、南大門の東方に位置するところから東南院と称し、三論・真言兼学の一院として発足した。延喜四年ごろの当院は丈六薬師如来を本尊とし、日光・月光の脇侍像や十二神将像のほか、十一面観音像を安置した五間の檜皮葺薬師堂と房舎・院主坊が建ち、宇多天皇より聖宝に下賜された五獅子如意が当院相伝の重宝として保管された。
延久三年(一〇七一)に東南院主は三論宗長者を兼ねることになり、元興寺・大安寺の三論宗をも摂収し、両寺の法文や三論供関係文書・聖教なども東南院に移され、ここに当院は三論宗の本所となり、院家として寺内に重きをなした。
寛治二年(一〇八八)二月白河上皇の高野山参詣に御所となって以降、上皇・天皇の御所となり、南都御所とも称されるに至った。
治承四年(一一八〇)十二月の兵火で炎上したが、建久元年(一一九〇)十月院主勝賢により再興され、後白河法皇の御所となったし、さらに建久六年三月の大仏殿落慶供養会には源頼朝の宿所にも充てられた。
正安二年(一三〇〇)九月に当院修理のため美濃国大井荘を十五ヵ年造営料として充行し、さらに元亨元年(一三二一)にも兵庫関の目銭の一部が修造に充当された。
元弘三年(一三三三)八月、後醍醐天皇は院主聖尋をたのみ潜幸し、討幕の計を議したが、寺内の衆議は不調に終り、聖尋らの手兵に護られ、末寺の鷲峯山に、さらに笠置寺へと移った。
文明年間(一四六九―八七)ごろには衰微はなはだしく、「東南院之家無正体」(『多聞院日記』文明十六年十二月二十日条)とさえいわれ、永禄十年(一五六七)十月には松永・三好の兵火で炎上し、薬師堂と鎮守二荒権現社などを残し、田畑と化した。
元禄十五年(一七〇二)十月勧進上人公慶は東南院家の再興のため東照権現宮・宸殿などを造建し、正徳四年(一七一四)七月に油倉の校倉を当院庭上に移して経蔵とした。今日、東南院経庫とよばれるものである。その後、宝暦十二年(一七六二)二月の奈良北焼けの大火で類焼したが、翌年九月に宸殿などは再建された。明治十年(一八七七)二月に明治天皇の行在所となり、正倉院の蘭奢待を御座所にて截香した。創建以来、醍醐寺との関係が緊密で、東南院主を兼職する醍醐寺僧や、醍醐寺座主を兼ねる当院主が多かった。その法脈は『東南院院主次第』や『東大寺別当次第』などで判明するが、観理・澄心・済慶・覚樹・恵珍・勝賢・覚澄・聖忠・聖珍らは著名な学僧であった。また、当院家の所領は九ヵ国、二十八ヵ所に散在したほか、播磨国大部荘や同国浄土寺なども重源の寄進により管領し、尊勝院とともに東大寺の最有力門跡寺院であった。
醍醐天皇の御代、延喜五年(905)乙丑の年、当寺別当の道義律師は、大安寺佐伯院をこの東南院に移転して、聖宝僧正に委嘱した。時に、勅令によってこの東南院主を補任された者は、三国相承三論長者とされた。
[参考文献] 『東大寺続要録』 尊勝院(そんしょういん)
『東南院務次第』
当門室は、清和天皇の御代、貞観十七年(875)に、聖宝僧正(832~909)が東南院を創建された。則ち、ここに弘法大師が初めて興された南院<真言院>に対して、東南院と号されたのである。
醍醐天皇の御代、延喜五年(905)乙丑の年、当寺別当の道義律師は、大安寺佐伯院をこの東南院に移転して、聖宝僧正に委嘱した。時に、勅令によってこの東南院主を補任された者は、三国相承三論長者とされた。
後三条天皇(在位1068~72)の御代、特に東南院務を三論宗の長者とした。東南院務が聖宝に宣下されて以後、現在に至るまで、顕密兼学して宗の貫主となるか。
寛治元年(1087)白河天皇が高野へ行幸された。
建久元年(1190)大殿上棟に依り、後白河法皇が御幸された。この東南院を皇居とされた。くわしくは様々な記録に出ているので、略して記録するのみである。
第一僧正聖宝(832-909)
僧正聖宝。俗姓は王氏、京都東部の人である。<或いは讃岐と言われる>
十六歳で真雅僧正(801-879)の下で剃髪得度した。初めは元興寺の願暁(?-874)、円宗(?−884)の二師から三論宗を学び、次に唯識を東大寺の平仁(?−?)に、華厳も同寺の玄栄に学んだ。また、真雅、真然(804/812−891)から密教の伝授を受けた。
元慶八年(884)伝法灌頂を源仁僧都(818−887)から受けた。
顕密二教に通じて備わり、驕る事が無かった。
興福寺維摩会の講師を受け、三論宗において初めて賢聖義と二空比量義を立てた。三論家の賢聖義はここから始まっている。
また、師は奈良の七大寺検校となった。
また、初め東大寺の東坊に幽霊が居て、人を悩ませていた。人々は恐れてそこには住まなかった。師は頼まれてそこに住み、幽霊が出て戦い寄せ付けなかった。師はそれに屈せず、幽霊は他所に移り、それ以来たたりは無くなった。
また、ある夕に灯明の下で読書をして、かたわらに湯呑みに茶を淹れ眠気に備えた。中夜になり、大蛇が梁の間から下りてきた。その影が湯呑みに映ったのを見、師がこれを叱りつけ、蛇は滅した。
また、庭に大岩があった。世間で言うには、師が金峯山から背負ってきたと。
師は常に修練を好み、名山霊地を巡った。
金峯山の険しい道は、役行者の後、森林が茂り、道が無くなっていた。師は斧を持ってこれを切り開いた。それ以来、苦行者が相続いて往来するようになった。
貞観十七年(875)に東南院を建立し、後三条天皇は特に東南院務を三論宗の長吏とした。東南院務の聖宝に宣下せられたところにより、三論宗の本所となった。
師が所持される如意が有った。これは背に五獅子を刻み、そして三鈷杵が彫られ、顕密を並べて学ぶ事を表していた。これは現在まで歴代伝わり、東南院の宝庫にある。三会の講師は必ずこの如意を召し出し、それを持って講演に応ずるのである。
寛平六年(894)十二月二十二日権律師に任ぜられる。
同月二十九日法務に叙せられる。
同七年(895)東寺長者に補任される。
同九年(897)十二月二十八日少僧都に任ぜられる。
昌泰四年(901)正月十四日大僧都に任ぜられる。
延喜二年(902)三月二十三日権僧正に任ぜられる。
同年東大寺別当に補任される。
同六年(906)十月七日僧正に転ぜられる。
同七年(907)醍醐を賜り官寺となる。
同九年(909)四月普明寺で病に伏す。
陽成、宇多両上皇、寺に行幸し病を見舞う。
七月六日遷化。享年七十八。
第二 少僧都延敒(861-929)
少僧都延敒。姓は長統。左京の人。
聖宝僧正より三論と密教を授かる。また、伝法灌頂を宇多上皇より受けた。顕密の学において当時、抜きん出ていた。
延喜十年(910、『三会定一記』では911)勅令によって維摩会講師となる。論ずる内容は広く、素晴らしい論を立て、人々にこれに応えられる者が居なかった。
はじめて五獅子如意によって誕生したので、以来三会講師はそれを持って式を行うが、師がその始めである。
同十八年(918)二月二十四日律師に任ぜられる。
延長二年(924)二月三十日東大寺別当に補任される。
同三年(925)六月十七日東寺長者に補任される。
同年七月二十七日醍醐寺座主に補任される。<観賢の後任(953-925)>
同五年(927)六月(宇多?)上皇は南都北嶺の碩学才能を招集して崇徳寺落慶供養を行った。延敒に勅して導師とした。
同六年(928)八月二十八日少僧都に任ぜられる。法務を兼ねて管領した。
同七年(929)十二月十三日東南院で寂す。享年六十八。
第三 大僧都済高(870−943)<勧修寺兼東南院>
大僧都済高。姓は源。右大臣源多(みなもとのまさる)公(831−888)の息子。はじめ、承俊(?−906)、慧宿の二師に従って密教を学ぶ。後に聖宝僧正より灌頂壇に入れられ、さらに密教を確かめた。
延喜三年(903)秋、醍醐帝が勧修寺を建てられ、済高を詔して落慶供養の導師とした。
同五年(905)九月二十一日、真言、三論の両宗に勧修寺の年分度者を賜る。<官符>
同十年(910)八月九日勅令により勧修寺を管領する。<官符>
延長三年(925)八月二十三日、醍醐天皇が法華経を写経され、勧修寺で慶讃法要が行われた。その恩賞に権律師に任ぜられる。
同六年(928)十二月二十七日、東寺長者に補任される。
同日、東大寺別当に補任される。
同月三十日、金剛峯寺座主に補任される。<大僧都観宿の後任>
同七年(929)、東南院を兼ねる<延敒が譲る>
承平二年(932)十月十三日、少僧都に任ぜられる。
天慶三年(940)十二月十四日、大僧都に転ずる。
同五年(942)十一月二十五日入滅。歳七十三。<或いは九十一歳>
第四 大僧都観理(894−974)
大僧都の観理は、姓は平氏、左京の人である。 延敒僧都に従って三論を学び、あわせて密教も伝え受けた。その智慧と理解のすぐれていることは、当時並ぶ者がいなかった。
天暦六年(952)勅命を受けて維摩会講師を務めた。衆僧はみなその教義解釈に感服した。
天徳四年(960)八月九日、権律師に任ぜられ、醍醐寺の座主に補任される。(仁皎の後任)
応和二年 (962) 年八月、帝が南都北嶺の法匠を召し清涼殿で宗義を議論し決着させた。観理が『無量義経』を講義した時、延暦寺の余慶が対偶について問い詰めた。観理の弁舌と解釈はよどみ無く、僧徒たちはみな耳を傾けた。これに敵う者が誰か居るだろうか?
康保二年 (965)十二月二十八日、少僧都に任ぜられる。
安和元年 (968)三月十一日、大僧都に転任。 安和三年(970)二月、東大寺別当に補任される。
天延二年 (974)三月二日、入寂。享年八十一。
著作としては『唯識章』十五巻、『四種相違義』三巻があり、また『方言義』、『諸経論指事文集』なども若干ある。
第十 少僧都 覚樹(1079-1139)
少僧都覚樹。 右大臣・源顕房公の子息。 幼少期には儒教(魯語)を学んだ。そして、慶信(第九代院主)法印のもとで三論宗と真言宗(三密)の教えを受け、両宗の深奥を極めた。
天永元(1110)年、維摩会の講堂に講師を務めた。その弁舌はあふれ出た言葉が翻るようであった。
大治四(1129)年十月二十八日、権律師に任ぜられる。 常に講義には、聴衆が門を埋め尽くし、その名声は遙か宋朝に届き、賜紫崇梵大師より書簡ならびに仏舎利八十粒が寄贈され、これによって法信を結んだ。 長承元(1132)年五月二十八日、権少僧都に任ぜられる。
保延五(1139)年二月十四日、入寂。享年五十六。 門弟は十一人いた。寛信、珍海、重誉、慧珍らがこれであり、皆、時代を代表する英傑である。
三論宗年表
401
鳩摩羅什、長安へ到着
538
仏教伝来
588
法興寺造営
592
慧遠(浄影寺)
595
高句麗僧恵慈来朝、聖徳太子の師となる
604
十七条憲法
607
法隆寺創建
611~15
『三経義疏』(聖徳太子)
623
吉蔵
625
高句麗僧慧灌来朝(三論宗第一伝)
642
百済大寺(大安寺)造営
658
興福寺維摩会の初め(福亮)
658
智通・智達渡唐し玄奘に学ぶ
673
初めて一切経を川原寺に写す(智蔵が督役)
683
僧綱制の成立
?−?
智蔵 (三論宗第二伝)
710
平城遷都
?−?
智光
718
道慈帰朝(三論宗第三伝)
718
法興寺移転(元興寺)
744
道慈(70余)
745
東大寺起工
754
唐僧鑑真来朝
794
平安遷都
806
空海帰朝
812
善議
814
安澄
822
東大寺真言院
822
最澄(57)
823
空海、東寺を与えられて真言宗の根本道場とし、教王護国寺と称する
827
勤操
835
空海(62)
840
玄叡
856
実敏
?−850,859-?
道詮
865
真如
874
願暁
874
醍醐寺創建
875
東大寺東南院
879
真雅(79)
886
隆海
906
益信(80)
909
聖宝(78)
926
醍醐寺金堂
929
延敒
974
観理
1014
澄心
1047
済慶
1071
東大寺東南院が三論宗本所となる
1071
有慶
1077
法勝寺建立
1111
永観
1139
覚樹
1143
重誉
1152
珍海
1153
寛信
1167
重源入宋
1180
南都焼討(東南院焼亡)
1224
明遍
