加藤拓雅 仏教学(三論宗、真言宗)

平安時代の三論宗

インド大乗仏教の二大学派の一つである中観派(Mādhyamika)は、東アジアへは鳩摩羅什(Kumārajīva)によって伝えられ、嘉祥大師吉蔵によって三論宗として大成されました。

その思想は、聖徳太子の時代から日本に伝来し、南都六宗の一として宗派を越えて学ばれ、大きな影響を与えました。

このページは日本における中観派、三論宗を紹介するものです。

三論宗血脈 珍海『三論玄疏文義要』より

口傳血脈
文殊 馬鳴 龍樹 提婆 青目 青辨 沙車 羅什
曇影 僧叡 道生 僧肇 道融 道恒 惠嚴 惠觀 已上八宿竝出
道朗 僧詮 法明 嘉祥 已上四師次第
元康 玄湜 已上漢
道慈律師 善議大徳 勤操僧正 願暁律師 尊師聖宝僧正 延敒僧都 観理済権大僧都 澄心僧都 在慶(済慶?)律師 有慶大僧都 顕真 永観律師 覚樹僧都 珍海

『東南院務次第』

当門室は、清和天皇の御代、貞観十七年(875)に、聖宝僧正(832~909)が東南院を創建された。則ち、ここに弘法大師が初めて興された南院<真言院>に対して、東南院と号されたのである。

醍醐天皇の御代、延喜五年(905)乙丑の年、当寺別当の道義律師は、大安寺佐伯院をこの東南院に移転して、聖宝僧正に委嘱した。時に、勅令によってこの東南院主を補任された者は、三国相承三論長者とされた。

後三条天皇(在位1068~72)の御代、特に東南院務を三論宗の長者とした。東南院務が聖宝に宣下されて以後、現在に至るまで、顕密兼学して宗の貫主となるか。

寛治元年(1087)白河天皇が高野へ行幸された。

建久元年(1190)大殿上棟に依り、後白河法皇が御幸された。この東南院を皇居とされた。くわしくは様々な記録に出ているので、略して記録するのみである。

第一僧正聖宝(832-909)
僧正聖宝。俗姓は王氏、京都東部の人である。<或いは讃岐と言われる>
十六歳で真雅僧正(801-879)の下で剃髪得度した。初めは元興寺の願暁(?-874)、円宗(?−884)の二師から三論宗を学び、次に唯識を東大寺の平仁(?−?)に、華厳も同寺の玄栄に学んだ。また、真雅、真然(804/812−891)から密教の伝授を受けた。
元慶八年(884)伝法灌頂を源仁僧都(818−887)から受けた。
顕密二教に通じて備わり、驕る事が無かった。

興福寺維摩会の講師を受け、三論宗において初めて賢聖義と二空比量義を立てた。三論家の賢聖義はここから始まっている。

また、師は奈良の七大寺検校となった。

また、初め東大寺の東坊に幽霊が居て、人を悩ませていた。人々は恐れてそこには住まなかった。師は頼まれてそこに住み、幽霊が出て戦い寄せ付けなかった。師はそれに屈せず、幽霊は他所に移り、それ以来たたりは無くなった。

また、ある夕に灯明の下で読書をして、かたわらに湯呑みに茶を淹れ眠気に備えた。中夜になり、大蛇が梁の間から下りてきた。その影が湯呑みに映ったのを見、師がこれを叱りつけ、蛇は滅した。

また、庭に大岩があった。世間で言うには、師が金峯山から背負ってきたと。

師は常に修練を好み、名山霊地を巡った。
金峯山の険しい道は、役行者の後、森林が茂り、道が無くなっていた。師は斧を持ってこれを切り開いた。それ以来、苦行者が相続いて往来するようになった。

貞観十七年(875)に東南院を建立し、後三条天皇は特に東南院務を三論宗の長吏とした。東南院務の聖宝に宣下せられたところにより、三論宗の本所となった。

師が所持される如意が有った。これは背に五獅子を刻み、そして三鈷杵が彫られ、顕密を並べて学ぶ事を表していた。これは現在まで歴代伝わり、東南院の宝庫にある。三会の講師は必ずこの如意を召し出し、それを持って講演に応ずるのである。

寛平六年(894)十二月二十二日権律師に任ぜられる。
同月二十九日法務に叙せられる。
同七年(895)東寺長者に補任される。
同九年(897)十二月二十八日少僧都に任ぜられる。
昌泰四年(901)正月十四日大僧都に任ぜられる。
延喜二年(902)三月二十三日権僧正に任ぜられる。
同年東大寺別当に補任される。
同六年(906)十月七日僧正に転ぜられる。
同七年(907)醍醐を賜り官寺となる。
同九年(909)四月普明寺で病に伏す。
陽成、宇多両上皇、寺に行幸し病を見舞う。
七月六日遷化。享年七十八。

第二 少僧都延敒(861-929)
少僧都延敒。姓は長統。左京の人。
聖宝僧正より三論と密教を授かる。また、伝法灌頂を宇多上皇より受けた。顕密の学において当時、抜きん出ていた。

延喜十年(910、『三会定一記』では911)勅令によって維摩会講師となる。論ずる内容は広く、素晴らしい論を立て、人々にこれに応えられる者が居なかった。
はじめて五獅子如意によって誕生したので、以来三会講師はそれを持って式を行うが、師がその始めである。

同十八年(918)二月二十四日律師に任ぜられる。
延長二年(924)二月三十日東大寺別当に補任される。
同三年(925)六月十七日東寺長者に補任される。
同年七月二十七日醍醐寺座主に補任される。<観賢の後任(953-925)>
同五年(927)六月(宇多?)上皇は南都北嶺の碩学才能を招集して崇徳寺落慶供養を行った。延敒に勅して導師とした。
同六年(928)八月二十八日少僧都に任ぜられる。法務を兼ねて管領した。
同七年(929)十二月十三日東南院で寂す。享年六十八。

第三 大僧都済高(870−943)<勧修寺兼東南院>

大僧都済高。姓は源。右大臣源多(みなもとのまさる)公(831−888)の息子。はじめ、承俊(?−906)、慧宿の二師に従って密教を学ぶ。後に聖宝僧正より灌頂壇に入れられ、さらに密教を確かめた。

延喜三年(903)秋、醍醐帝が勧修寺を建てられ、済高を詔して落慶供養の導師とした。

同五年(905)九月二十一日、真言、三論の両宗に勧修寺の年分度者を賜る。<官符>

同十年(910)八月九日勅令により勧修寺を管領する。<官符>

延長三年(925)八月二十三日、醍醐天皇が法華経を写経され、勧修寺で慶讃法要が行われた。その恩賞に権律師に任ぜられる。

同六年(928)十二月二十七日、東寺長者に補任される。

同日、東大寺別当に補任される。

同月三十日、金剛峯寺座主に補任される。<大僧都観宿の後任>

同七年(929)、東南院を兼ねる<延敒が譲る>

承平二年(932)十月十三日、少僧都に任ぜられる。

天慶三年(940)十二月十四日、大僧都に転ずる。

同五年(942)十一月二十五日入滅。歳七十三。<或いは九十一歳>

三論宗年表

401

鳩摩羅什、長安へ到着

538

仏教伝来

588

法興寺造営

592

慧遠(浄影寺)

595

高句麗僧恵慈来朝、聖徳太子の師となる

604

十七条憲法

607

法隆寺創建

611~15

『三経義疏』(聖徳太子)

623

吉蔵

625

高句麗僧慧灌来朝(三論宗第一伝)

642

百済大寺(大安寺)造営

658

興福寺維摩会の初め(福亮)

658

智通・智達渡唐し玄奘に学ぶ

673

初めて一切経を川原寺に写す(智蔵が督役) 

683

僧綱制の成立

?−?

智蔵 (三論宗第二伝)

710

平城遷都

?−?

智光 

718

道慈帰朝(三論宗第三伝) 

718

法興寺移転(元興寺)

744

道慈(70余)

745

東大寺起工

754

唐僧鑑真来朝

794

平安遷都

806

空海帰朝

812

善議

814

安澄

822

東大寺真言院

822

最澄(57)

823

空海、東寺を与えられて真言宗の根本道場とし、教王護国寺と称する

827

勤操

835

空海(62)

840

玄叡

856

実敏

?−850,859-?

道詮 

865

真如

874

願暁

874

醍醐寺創建

875

東大寺東南院

879

真雅(79)

886

隆海

906

益信(80)

909

聖宝(78)

926

醍醐寺金堂

929

延敒

974

観理

1014

澄心

1047

済慶

1071

東大寺東南院が三論宗本所となる

1071

有慶

1077

法勝寺建立

1111

永観

1139

覚樹

1143

重誉 

1152

珍海

1153

寛信

1167

重源入宋

1180

南都焼討(東南院焼亡)

1224

明遍

401 鳩摩羅什、長安へ到着
538 仏教伝来
588 法興寺造営
592 慧遠(浄影寺)
595 高句麗僧恵慈来朝、聖徳太子の師となる

604 十七条憲法
607 法隆寺創建
611~15 『三経義疏』(聖徳太子)
623 吉蔵
625 高句麗僧慧灌来朝(三論宗第一伝)
642 百済大寺(大安寺)造営
658 興福寺維摩会の初め(福亮)
658 智通・智達渡唐し玄奘に学ぶ
673 初めて一切経を川原寺に写す(智蔵が督役) 

683 僧綱制の成立
?−? 智蔵 (三論宗第二伝) 

710 平城遷都

?−? 智光 

718 道慈帰朝(三論宗第三伝) 
718 法興寺移転(元興寺)

744 道慈(70余)
745 東大寺起工
754 唐僧鑑真来朝
794 平安遷都
796 東寺建立
806 空海帰朝
812 善議
814 安澄
816 高野山金剛峰寺創建
822 東大寺真言院
822 最澄(57)
823 空海、東寺を与えられて真言宗の根本道場とし、教王護国寺と称する
827 勤操
835 空海(62)
840 玄叡
856 実敏

?−850,859-? 道詮 

865 真如
874 醍醐寺創建
875 東大寺東南院

875 道昌 

874 願暁
879 真雅(79)
886 隆海
906 益信(80)
909 聖宝(78)
926 醍醐寺金堂
929 延敒
974 観理
1014 澄心
1047 済慶
1071 東大寺東南院が三論宗本所となる
1071 有慶
1077 法勝寺建立
1111 永観
1139 覚樹

1143 重誉 

1152 珍海 

1153 寛信
1167 重源入宋
1180 南都焼討(東南院焼亡)
1224 明遍

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