しかしその時でさえ私は音楽にとりつかれていた。
時々両親が訪ねてくれたが、ある時父は私たちの日曜の讃美歌の集いに参加するためにギターを持ち出してきた。
私はたちまちこの楽器の音のとりこになってしまた。
1942年に家に帰ったとき、今度は家にあった立派なピアノの音に魅せられた。
察しのよい父は、次の年には地方の先生について習えるようにはからってくれた。
よく練習をするように私をはげますのは、父にとってはかなりの苦労だったらしいが、私はピアノがひけることにおおよろこびで、とくにバッハを一生懸命練習した。
この頃父はロンドンの郊外で小さなダンスバンドを作っていた。
家のまわりに楽器があるので,私のギターに対する情熱び燃えはじめた。
父が仕事に出かけて留守の時、私は楽器をケースから取り出して、ラジオから聞こえてくる音楽に合わせて開放弦でひいてみた。
こんなところを父に見つかったらどうたるかと心配で、気持ちが落ち着かなかった。
ある日、とうとう父に見つかったが、思いのほか私を叱らずに、私にギターを教えてヤるといってくれた。
私はたちまち基本的な技術をマスターした。
父がジャズギターをひいていたので、私か手ほどきを受けたのはジャズ用の楽器だった。
ギターをひくかたわら、ピアノの勉強も続けていた。
クラシックがますます私の興味をそそり、父もそれに同調しはじめた。
1944年私の11回目の誕生日に父は、古いスバニッシュギターをもって帰って。
この頃には父はダンスバンドやジャズに興味を失い、かわりにクラシックなスパニッシュギターに強くひかれていた。
私たちは2人でこれを研究しはじめた。
1945年に父は私をギター愛好協会の会合に連れていってくれた。
そこでは会員の多くが演奏したが、私の演奏は熱狂的喝采を受けた。
会良のポリス・ペロー博士は私に手ほどきしてやると約束してくれた。
ペロー博士は白系ロシヤ人で、ロシヤの最後の皇帝に仕えたギター奏者だった。
かれは大へん熱心に教えてくれたが、その奏法は19世紀初頭のイタりア派のもので、タレガ、ロベト、セゴビアなどのスペイン派の奏法とは大分ちがっていた。