ジュリアン・ブリーム

2021年1月6日

1965 Osaka International Festibal
Guitar recital
Program より 「小自伝」

 

私は1933年ロンドンでまれた。父は商業美術と本のさし絵書きをしていた。

若い頃から、父は聞き覚えでバンジョーとピアノを弾いていた。

かれは大変音楽に感じやすい性質だったようで、私の家にはグランドピアノがおいてあり、父か父の友人がいつもそれをひいていた。

 

戦争が起きると私はイングランドの北西のある農場に疎開した。

私たちがそこで聞くことのできたただ一つの音楽は農夫のおかみさんがひく足踏みオルガンとそのまわりで歌う讃美歌だけだった。

しかしその時でさえ私は音楽にとりつかれていた。

時々両親が訪ねてくれたが、ある時父は私たちの日曜の讃美歌の集いに参加するためにギターを持ち出してきた。

私はたちまちこの楽器の音のとりこになってしまた。

1942年に家に帰ったとき、今度は家にあった立派なピアノの音に魅せられた。

察しのよい父は、次の年には地方の先生について習えるようにはからってくれた。

よく練習をするように私をはげますのは、父にとってはかなりの苦労だったらしいが、私はピアノがひけることにおおよろこびで、とくにバッハを一生懸命練習した。

 

この頃父はロンドンの郊外で小さなダンスバンドを作っていた。

家のまわりに楽器があるので,私のギターに対する情熱び燃えはじめた。

父が仕事に出かけて留守の時、私は楽器をケースから取り出して、ラジオから聞こえてくる音楽に合わせて開放弦でひいてみた。

こんなところを父に見つかったらどうたるかと心配で、気持ちが落ち着かなかった。

ある日、とうとう父に見つかったが、思いのほか私を叱らずに、私にギターを教えてヤるといってくれた。

私はたちまち基本的な技術をマスターした。

父がジャズギターをひいていたので、私か手ほどきを受けたのはジャズ用の楽器だった。

ギターをひくかたわら、ピアノの勉強も続けていた。

クラシックがますます私の興味をそそり、父もそれに同調しはじめた。

1944年私の11回目の誕生日に父は、古いスバニッシュギターをもって帰って。

この頃には父はダンスバンドやジャズに興味を失い、かわりにクラシックなスパニッシュギターに強くひかれていた。

私たちは2人でこれを研究しはじめた。

1945年に父は私をギター愛好協会の会合に連れていってくれた。

そこでは会員の多くが演奏したが、私の演奏は熱狂的喝采を受けた。

会良のポリス・ペロー博士は私に手ほどきしてやると約束してくれた。

ペロー博士は白系ロシヤ人で、ロシヤの最後の皇帝に仕えたギター奏者だった。

かれは大へん熱心に教えてくれたが、その奏法は19世紀初頭のイタりア派のもので、タレガ、ロベト、セゴビアなどのスペイン派の奏法とは大分ちがっていた。

私がジャズギターをヤめてクラシックギターを勉強しようと思い立ったのは、1945年にセゴビ丁のひくタしガの「トレモロ」をSPで聞いてからだった。

このとき私は、私が求めていた演奏スタイルこそこれだと思った。

私はセゴヒアが戦後イギリスを訪れたとき、はじめてかれに会うことができた。

この巨匠にめぐり会ったことは私に多くの影響を与えた。 私は2回しか、かれのレッスンを受けることかできなかったが、かれが私を将来性に富んだギター奏者だと認めてくれたことは、私にとって大きな刺激となっただけでなく、将来の目標を定めることになった。

この巨匠と旅行し、個人的なレッスンを受けるために基金を募ろうという計画があり、セゴビアはまたこの計画を推進するために、主な政界や財界の人に手紙をだそうとまでいってくれた。

しかし残念なことにこの計画は実現せず、私は数年間自分一人で手探りで進まねばならなかった。

1947年にチェルテナムで最初のリサイタルを開いたのち、私は奨学金を得て王立音楽院に入り、作曲家のコースに学んだ。

その頃イギリスではギターはまだ本当の独奏楽器として認められていなかった。

私の演奏会のほとんどは政府の捕肋をうけているイギリスの芸術協議会の主催によるものだった。

そのフログラムに私はよくエリザベス朝のリュート音楽をとり入れた。

この時代の作品に対する興味はすでに数年前から湧いてきていた。

 

1950年頃、私は偶然の機会から有名なハープシコード作りのトーマス・ゴッフと友達になった。

かれは私がエりザベス朝時代の音楽に熱中していることを知って、リュートを1つ作ってくれた。

私はまた図書館や博物館でいくつかのりユートの曲を見出した。 1950年9月カウドレイ・ホールで私ははじめて人口ンドンの聴衆の前に独奏者として姿をみせた。

聴衆は大歓迎を示してくれた。

この時のことで何より印象強く残っていることは、ちょうどその時イギリスに来ていたセゴビアがこの音楽会に基金を寄付してくれたことである。

 

それから後口ントン市内にある室内音楽演奏家のメッカ、ウイグモア・ホールでのりサイタルが、ゴッフの世話で行たわれた。

この会も大成功で,翌日の新聞批評はりサイタルのすばらしい出来栄えに対し最大級の讃辞を浴びせてくれた。

このことが私の将来に対する大きたわかれ道となった。

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